第2回 生業と民謡
   広 田  宙 外   
 
 

 はじめに

 人の生きる場には、空気と水があるように、人が生活する喜怒哀楽の場には民謡がある。これらは名もなき、のど自慢の人たちが、農耕、労作、娯楽、祭り行事の度毎に、人たちの感性のおもむくままに、素朴で魅力的な美声で即興的に唄われた。これが、大衆の支持を得て今日まで唄い継がれた、民謡となったのであろう。本県には、民謡として記述されるものが二百数十曲あるといわれるが、日本の近代化、機械化の進展により、民謡の素朴さが失われつつあることは、淋しい限りである。

 また民謡は、地域環境との関わりも大きい。まず本県の実態を調べよう。東は親不知(おやしらず)、西は倶利伽羅、東南は立山を主峰とする北アルプス、北は能登半島にいだかれる富山湾という条件であり、しかも冬季は豪雪地帯という、かならずしも好適の地とは言いがたい。ただこの風光明媚の自然環境が、勤勉で忍耐強い県民性と、素朴で純情な心情を培った。民謡人もこれを心として、海から渡来した高度の技巧を要する各地の民謡を取り入れ融和させ、越中民謡として、高く評価される特徴ある民謡として育てたのであろう。

 元来、民謡は人々が集団化するにしたがって、拍手や木片器物をたたき拍子をとりつつ、喜怒哀楽の情を集団の声として表現してきた。古き時代の人たちは、農耕漁業の収穫の喜びや祈り、鉱掘り、鋳物造りの共同作業の際の完成の喜びを表現し、作業歌とした。美声の仲間が唄い、それにつれて他の仲間たちが唄いつつ踊り、あるものは拍子を、あるものは木片や器物をたたいた。平易で、素朴で、仲間から愛された唄が、その土地に定着し受け継がれたのが、民謡として残されたものなのであろう。

 

 生業と民謡

 人が生きるためには労働をせねばならぬし、その労をいやし、励まし喜び合う民謡が存在する。まず本県に伝承されているいくつかの“仕事唄”を職種ごとに紹介しよう。
 

 ●農業に関する唄

 田植唄、籾(もみ)すり唄、粉ひき唄、など
 

 ●漁業に関する唄

 氷見網起こし木遣り、伏木帆柱起こし唄
 

ソリヤエー伏木の山からヤーンエー

 ヤントコセーヨーイナー

 伏木の山ですくすく伸びたヨーイトナ

 ソーリヤン アリヤエーノ

 アリヤ アリヤ ドツコイシヨ

 ヨーイトコ ヨーイトコナー
 

 ●林業に関する唄

 本県には、伐採にかかわる杣(そま)唄、木挽き唄、今でも立山町で唄われているという炭焼き口説きが残っている。
 

  木挽き唄

大工さんより木挽きさん憎くや−よ−

 アーゴーキリン ゴキリン

 アー仲の好い中 また挽き分ける

 アーゴキリン ゴキリン

 しめてこい しめてこい
 

 ●交通に関する唄

 現在と異なる状況下での交通事情は、人力や牛馬力の使用、船の利用が主力だったので、本県にも荷方節、馬方節、牛方節、船方節などが残されている。現状況下では唄われることもなく、そのいくつかは、民謡人の努力により祝い唄”とし受け継がれている。

  利田荷方

こなたの館(やしき)はめでたい館

   高から鶴が舞い下がり

   下から亀がはい上がる

   鶴と亀との舞い遊び

   いかように遊ぶと聞きぬれば

   末は繁盛と鳴いて遊ぶ

        (囃子)チリン チリン
 

 ●他の諸職に関する唄

 他の諸職にも、それぞれ作業唄があるのだが、この稿では鉱掘り唄との関連で鋳物の唄(やがえふ)”を記すことにする。やがえふ”は弥栄節ともいわれ、銅器の街高岡が、目下その復興普及につとめている。“やがえふの歌詞を記す。

  エンヤツシヤ ヤツシヤイ

 河内丹南鋳物のおこり ヤガエフ

 今ぢや高岡金屋町 エー

    エンヤツシヤ ヤツシヤイ

 今ぢや高岡金屋町 エー

    エンヤツシヤ ヤツシヤイ

 以上述べた民謡は、日本の近代化によりその形態をとどめるにすぎず、のど自慢の愛好者が、舞台や宴席で唄うのみの民謡となったのである。

私は意図的に“越中おわら”や布施谷節”、富山湾沿岸に残るまだら”やその流れがあると言われる五箇山民謡に触れなかったのだが、以下私見を交えつつ述べることにする。

  


おわら西新町
夕方女踊り2
撮影松本慎一さん
映像提供 TMP

おわら西新町
夕方男踊り2
撮影松本慎一さん
映像提供 TMP
(映像が動きます)        

 

 越中おわらの歴史的背景

 “糸くり唄と関連づけられてきた“越中おわら”は、従来八尾町の孟蘭盆(うらぼん・7月)行事として“川崎おどり”の名で実施されてきた。元禄15年頃秋風盆に改めたと伝えられ、その後、町の芸達者の宮腰半四郎とその仲間たちが大笑ひ節と改作した。歌中におわらひ”との言葉を入れて大衆的なものとし、現在の風の盆の様式(9月当初3日間)とし、嘉永・安政の頃からおわらひ”の“ひ”の字をとって、豊年満作を祈念する行事として、養蚕の町の糸くり唄”として唄われ伝承されたとされる。元唄は、淫猥な文句が多く、歌も踊りも明治初年に致るまで度々禁止されるに及んで、一時は滅亡の危機に陥ったのだが、町の識者たちの肝入りで、東都より大槻如電翁を招き、新作歌詞を創り行事を復興させたと伝えられている。

 ところで越中おわらの名の由来だが僻(へき)地の小原村の名をとったとか、大笑ひ節のの字をとっておわら”としたとかの説がある。私は後者が正しいのでないかと思っているが、真偽の程はわからない。“越中おわら”を調べて気になるのは、文献にある川崎おどり”大笑ひ節”がいかなるものか、五箇山平村上梨で唄われたという五箇山おわらがどんな形態のものか、伝承する人も、その資料(曲譜)がどんなものか調べることが出来ず、残念至極である。

 “越中おわら”を他民謡と比較して考えると、従来“糸くり唄”との関連で考えられていた越中おわら”は現在の唄と違って、平易で素朴な唄でなかったかと思われるのである。その理由は、当時富山湾には北前船の往来があり、他国の漁夫や商人が、日本海沿岸の漁港に立寄る機会も多くなり、土地の人たちとの交流が深まるにつれ、漁夫が唄った酒盛唄のハイヤ節が影響を与え、改良され、あの高い唄いだしの越中おわらのモデルとなったとも考えられるのである。

 “越中おわら”のように、高音から唄いだされる民謡は、日本海側には出雲地方の安来節”より例がなく、甲高い調子とその唄い方はハイヤ節系でないかとする町田佳声説を私は支持するし、賛成する1人である。私は、それ故越中おわらは、糸くり唄とは関連なしと思っている。(歌詞を記載する)

うたわれよ わしやはやす (囃子)

 来る春風 氷がとける

 キタサノサ ドツコイサノサイ (囃子)

 うれしや 気まゝに開く梅

 キタサノサ ドツコイノシヨイ

 シヨツトハイーハイー   (囃子)

あねま今来てはやおかえりか

 浅黄染とはおわら藍たらぬ      古歌

唄の町だよ八尾の町は

 唄で糸とるおわら桑も摘む      中山輝作

 “越中おわらの技巧的表現は、5文字冠り、字あまり、とされ、主歌と主歌の間に囃子として、次の句を挿入する場合もある。“越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山三国一だよ”(この種の囃子多々あり)と。現在唄われる“越中おわらの曲節は、町の美声の持ち主だった故江尻豊治氏が完成定着させたもので、民謡界から高い評価を得ている。なお“越中おわらが今日の隆昌を築いたかげには、故川崎順治、橋爪辰男両氏の好意ある援助のあったことを忘れてはならない。

 先にも触れたが、越中おわらハイヤ節系の唄だとすると、当時富山湾を航行した北前船が、各地の漁夫商人をともない能登七尾輪島を中心に、富山湾にそそぐ諸河川をさかのぼり、物資の交易事業に従事するかたわら、土地の人たちとの交流を深めた結果の所産とも思えるのであるが、“越中おわら”にしても、神通川、井田川をさかのぼり、商魂逞(たくま)しい人たちが、養蚕の町の八尾人が唄う素朴な越中おわらの原形と宥和(ゆうわ)定着させ、県が誇る“越中おわら”の完成へ役立ったのでないかと推測出来るのである。(なお、一説に「越中おわらのルーツは、ロシア領なり」とする音楽家本居長世氏がいたことを付記する)

 思うに、現在の越中おわら”は糸くり唄ではなく、今では、美声と技巧と歌唱表現を競う、ショー的民謡として、評価される向きが多い。

 
 

 伝えられた民謡まだら”

 北前船が日本海側を往来するにつれ、輪島・七尾、富山湾の新湊・岩瀬・魚津の3漁港にも、漁夫商人の交易が増え、人との交流も多くなったと思われる。漁師唄“まだらも長崎方面の漁夫商人が持ちこんだ民謡とみてよい。なお本県にはまだら”と名付けられた唄が3曲、“めでたと呼ばれるもの1曲、いずれ同一系統のもので歌詞は同一のものであるが、識者それぞれ工夫して、特徴のある旋律を奏する。

めでためでたの若松さまよ

    枝も栄える葉もしげる(元唄)

 本県のめでた節と呼ばれる福光めでたは、陸地で唄われるまだらで、おそらく庄川をさかのぼった商人たちによって伝えられたまだらで、現在は祝い唄として唄われている。これらの土地の民謡人は、この保存を図るため保存会を設立して、普及伝承に努めている。

 

 布施谷節と糸くり唄

 布施谷節は、黒部と魚津の境を流れる布施川の谷あいの村に、唄い継がれてきた情緒ある糸くり唄と言われる。この民謡は、高度の演唱表現と美声が要求される唄なので、土地の糸くり唄なのか、他県の民謡が定着、完成されたものなのか不明だ。しかし、私は、新川木綿の産地であるこの地の唄が、七尾・輪島の漁夫商人の交易により渡来した“魚津まだら”と無関係とは思えない。きっとこの地の愛好家たちが工夫、改良を加えつつ、地域の唄として唄い続けたのであろう。

 布施谷節の古歌を紹介する。親のもとより来いとの知らせ、糸も車も手につかぬ(他は略)、とあるように、素朴な心情を唄った元唄が、なぜ現在のような高い技巧と表現力を要する民謡となったかはわからぬが、本県民謡としてもむずかしい民謡の一つである。

いつかハネーイヤ春風アーハーレナー

 里より吹けばエーヨー

 山のハネーイヤ虚無僧がアーハーレナー

 腰上げてヨー

  めでためでたの布施谷節を

    吹けば田植えが近くなる

 ハーレナーハーイーヤーハーイヨー

 
 
 

 五箇山民謡とまだら

 五箇山民謡にも七尾輪島まだらとつながる民謡があるという。だとすると七尾輪島の漁夫商人たちが、庄川を航行し物資の売買のため、僻地(へきち)五箇山までさかのぼった。そこで、交流を拡げ、その土地の人たちのの中から、民謡の輪を拡げ得たとも考えられ、県民謡の麦屋節も他県人との往来交流により、工夫改善されたとも思えるのである。いずれにしても、“七尾輪島まだら”の流れで、現地に残る長麦屋早麦屋がそれなのである。一説には、麦屋節は平家落人によるとする説がある。その根拠は文化3年(1806)の北茎の北国巡杖記説によるのだが、いささか無理な推理であり、私は、それ以前の記録資料もなく、歴史的変遷経緯も知る由もないので、前説をとる。また、五箇山は、漆の産地ゆえ塗物の関係で、物々交換の適地であった。後述するが、加賀騒動の流人芸者お小夜の流刑地でもある。五箇山は僻地(へきち)ゆえ、土地民謡の改良や変化も少なく、そのまま保存伝承された民謡が多いのであるが、いずれも庶民的で曲態もリズムも独特な哀感をもつ民謡が多い。その何曲かを参考に供する。
 
 

 ●麦屋節

麦や菜種はイナ二年でイナー

 刈るにイナー麻が刈られうか

 半土用にイナー

 ジャントコイ ジャントコイ

 麦屋節が、平家の落人によって伝えれられたとする説は、23節の歌詞中に、波の屋島とか烏帽子狩衣などの言葉が用いられていることによる。
 

 ●筑子(こきりこ)

筑子は、現中学枚教材として取り上げられている民謡で『二十四輩順拝図会』『越の下草』なる文献にも記されており、五箇山民謡としては根拠ある民謡といえるものである。筑子は、23センチの乾燥した細竹をまとめて、カスタネットのように拍子をとりつつ踊る、優雅な民謡である。

こきりこの竹は七寸五分ぢや

 ながいは袖のかなかいぢや

 窓の桟さも デデレコデン

 ハレの桟さもデデレコデン

以下、歌詞は省略するが、2節の歌詞は3節の歌詞の2連を繰り返し唄う原則がある。歌詞には、労働を尊び、姑の嫁への暖かい心情が唄われている。付記するが、利賀地区ではこつきりといい、節まわしも異なっている。
 

 ●お小夜節

 加賀騒動の流人として、この地に流された輪島生まれの遊女お小夜は、なかなかの美女で芸達者だったといわれ、土地の若者たちに唄、三味線、踊りを教え、たちまち村の人気者となったと伝えられる。その後、平村小谷に住む、早弾き盲女“倉のおのと共に、五箇山民謡の普及発展に尽くしたと云われて、盲女の改良したとする早麦屋”も、現在の麦屋節に影響なしとしない。お小夜は同地で没し、墓も猪谷に通ずる路傍に建てられている。
 なお、当時の社会状況からみて遊女お小夜の五箇山定住は、五箇山民謡の充実発展に大きく貢献した恩人だったのでないかと、私は考えるものがある。

 ヨーイトコシヨーヨーイトコシヨー

名をつけようならお小夜とつきやれ

 お小夜きりよよし声もよし

峠細道なみだてこえて

 いまは小原で佗び住まい
 

 ●四ツ竹節

 この民謡は、岐阜県白川村の民謡だが、いつの間にか五箇山民謡として取り扱われるようになり、四ツ竹を手でならしながら唄うことから、かく名付けられた。

越中五箇山 蚕の本場

 娘やりたや あの桑摘みに

 宝ゆたかな 麦やがお里 (他略)
 

 ●といちんさ

 五箇山には、サイチン(みそさざい)と呼ばれる小鳥がいて、雪深い季節になると、合掌造りの家屋の樋近くに現われ、流水を求めて、さえずり飛びまわるさまを、軽快なリズムと魅力ある旋律で表現し、労働を尊ぶ僻村の人たちの願いを唄いあげている。

鳥がナー さびしく機織る音に トイチン トイチン トイチンサ ヤーサレチトチレチ トイチンサ トイチンサ 拍子ナー 揃えて ササうたいだす やれかけ はやせよ トイチンサ トイチンサレーチ ヤサレーチ トイチンサ

 

 むすび

 以上大略を述べたが、ともかく本県民謡は地域的にみて、海から渡来した他府県民謡(ハイヤ節、まだら系)の影響を受けつつ工夫改良がなされた。他県に誇るべき民謡として、独特の技巧と曲節、歌唱表現を要する民謡として完成させつつ伝承し、現代に及んだと考えられる。しかし、国の近代化が進むにつれ、生業に関する往時の民謡も古物化しつつあり、それを語り継ぐ人も民謡人も少なくなった。民謡の舞台では、大衆好みのする民謡が華麗なショーとして展開され、土の香の漂う素朴さを表現とする識者を嘆かせている。私はここらで民謡人が、その民謡普及の企画に一工夫すべきでないかと考えている。

参考文献

 『富山県の民謡』

 『日本民謡辞典』

 『日本民謡全集』
 
 

(ひろた ちゅうがい・元富山市立芝園中学校校長)  −平成13年127日放送−

 
 
 
 

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